安江仙弘陸軍大佐 と ミハエル・コーガン
武田徹氏(ジャーナリスト)が書いた『偽満洲国論』(河出書房新社)には、面白いエピソードが紹介されている。 簡単にまとめてみたいと思う。
ユダヤ人保護に尽力した安江仙弘陸軍大佐は大連で終戦を迎え、ソ連軍によって捕虜として拉致され、シベリアに抑留され、各地の収容所を転々とした後、脳溢血で倒れ、収容所の中で帰らぬ人となった。 1954年、失意の生活を続けていた日本の安江家を、巨漢のユダヤ人が突然訪問した。 このユダヤ人は安江仙弘陸軍大佐の遺族に「葬式は出したのか」と尋ねた。「まだだ」と遺族が答えると、「お金はこちらで用意するから、ぜひ出してくれ」と言った。 遺族は初め遠慮した。 すると、このユダヤ人は「在日ユダヤ人協会」を代表して「極東のユダヤ人たちの安江大佐への恩返しの気持ちだから、葬式を出してくれ」と頭を下げて頼み込み始めた。 遺族はこのユダヤ人の熱心さに打たれて葬式を行なった。 以後、このユダヤ人は安江仙弘陸軍大佐の長男と親交を結ぶようになった。 このユダヤ人こそ、知る人ぞ知るミハエル・コーガンという名のユダヤ人だった。 彼は1920年にウクライナのオデッサで生まれたが、ロシア革命後の混乱を避けて、1932年、満洲のハルビンに移住した。 彼は1938年にハルビンで開催された「第2回極東ユダヤ人大会」では、シオニスト青年団の一人として参加し、安江仙弘陸軍大佐を護衛していたのである。 彼は日本人顔負けの流暢な日本語をあやつりながら、「安江さんに助けられたユダヤ人の数は5万人に上ります」と語っていた。
極東のユダヤ人保護に奮戦する安江仙弘陸軍大佐に感銘を受け、親日家となったミハエル・コーガンは、翌年1939年(19歳の時)に来日し、東京の「早稲田経済学院」で貿易実業を学んだ。 彼は5年間の日本滞在中、ロシア文学者の米川正夫氏の家に下宿し、米川正夫氏のドストエフスキーの翻訳を手伝った。 その後1944年、ミハエル・コーガンは天津に渡り、貿易商を営み、1950年に再び来日した。 彼は「太東洋行」という個人営業の輸入会社を始め、世田谷の仮住まいで雑貨の輸入業を営んだ。 彼は1953年に会社名を「太東洋行」から「太東貿易」に変更し、日本で初めてウォッカを醸造・販売し、米軍払い下げの中古ジュークボックスのリース業を始め、成功を収めた。 (この会社名の「太東」は「極東の猶太(ユダヤ)人会社」という意味だという)。 彼は1956年には純国産ジュークボックス1号機を開発し、1958年には日本で初めて「ピンボールゲーム」をリースし、ヒット商品とした。 彼は1964年には東京オリンピックにあやかって、新顔の「オリンピアゲーム」を市場に導入した。 これは後に「パチスロ」と呼ばれる娯楽ゲーム機に進化していく原型であった。 彼は翌1965年には遠隔操作のマジックハンドで玩具を吊り上げる「クレーンゲーム」を開発した。 こうして、ミハエル・コーガンは次々に日本のアミューズメント業界を変えていった。 ミハエル・コーガンは1973年に会社名を「太東貿易」から「タイトー」に変更した。 この年、彼は日本初の業務用テレビゲーム「エレポン」を発表し、テレビゲーム市場を築いた。 彼は1977年には「ブロック崩し」でテーブル式ゲームマシンを発売し、ゲームセンターだけでなく喫茶店にも販路を拡大した。 翌1978年、「スペース・インベーダー」を発表し、これが空前の大ヒットとなり、社会現象になった。「タイトー」は「セガ」に次ぐアミューズメント機器メーカーの老舗であり、「セガ」と並ぶ最大手であり、「セガ」と共にビデオゲームを出した日本最古のメーカーでもある。 ミハエル・コーガンは、「スペース・インベーダー」の大ヒット後の1984年に、出張先のロサンゼルスで心臓発作により他界した。 遺産はおよそ100億円と言われ、外国人では過去最高と報じられた。 コーガンの葬儀はユダヤ葬で行なわれ、イスラエルに埋葬されたらしいが、生前、彼は日本での埋葬を望んでいたという。「タイトー」はその後、ゲーム開発のほか、ジュークボックスの技術を応用したカラオケ機の製造に力を入れ、その大手企業に数えられている。 この株譲渡益によって、ミハエル・コーガンの妻アーシアは1994年の長者番付2位となった。
ミハエル・コーガンについて、武田徹氏(ジャーナリスト)は次のように語っている。
ミハエル・コーガン。 もしも、その名を覚えている人がいるとしたら、彼の残した莫大な遺産に関しての記憶ではないか。 102億円の遺産は1984年の彼の没年当時で、鹿島建設の鹿島守之助、大正製薬の上原正之など財界の大物たちにつぐ歴代6位、外国人では史上最高額だと大いに騒がれた。 その膨大な遺産は彼が『スペース・インベーダー』など一連の電子ゲーム機のヒットによって一代にして巨額の財をなした結果だった。 彼の遺産は財産だけではなかった。 日本のみならず世界中に電子ゲームのネットワークを張りめぐらせたこと。 ちなみにコーガンの育ったハルビンにも、日本資本によるゲームセンターが戦後50年目の1995年にオープンしている。